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世界遺産「アウシュヴィッツ・ビルケナウ:ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940-1945)」を訪ねてPart1

こんにちは。あおです😊

ご訪問いただきありがとうございます。

 

ポーランドの街シリーズは第6回で終了したので…

これからは、私が訪れたポーランドやその他の国の世界遺産についても時々記事にしたいと思っています。

思い出してまとめてみたいので、よろしければおつきあいください。

 

世界遺産といっても、必ずしも素晴らしい景色があるとは限りません。

人類が犯した過ちを記憶にとどめ、未来への教訓とする「負の世界遺産」と呼ばれているものもあります。

 

一般的に「負の遺産」は、戦争人種差別の歴史にかかわるもの。

 

戦争にまつわる負の世界遺産といえば、日本の「広島平和記念碑(原爆ドーム)」もそのひとつ。

核廃絶と世界平和の大切さを訴える記念碑です。

 

そして同じく第2次世界大戦中に人類が犯した大きな過ちを伝える負の世界遺産がポーランドにもあります。

「アウシュヴィッツ・ビルケナウ:ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940-1945)」

言うまでもなくナチスのユダヤ人大量虐殺の舞台となった場所です。

 

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今日は命の重さ、命の尊さを改めて考えさせられ、未来への教訓とするべきこの遺産についてお伝えしたいと思います。

 

長くなりそうなので2回に分けます。

 

*目次・Part1

 

はじめに

 

ポーランドにいた時、アウシュヴィッツ強制収容所を訪れて、ショックで具合が悪くなったという話をよく聞きました。

そのため敢えて行かないと決めている人もいました。

 

私は、それでも見ておくべきと覚悟を決めて訪れました。

事実を直視し、声なき声に耳を傾け、学ぶために。

 

しかしこの場所で私は写真を撮ることができませんでした。

そのためこの記事に使った写真は、夫が資料のために撮ったものです。

 

アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)

 

オシフィエンチムは、ポーランドの古都クラクフから西へ50㎞ほどのところにある地方都市です。

第2次世界大戦がはじまりナチス・ドイツがポーランドに攻め入り、オシフィエンチムはドイツの支配下となりました。

そして、この町はドイツ語の地名「アウシュヴィッツ」に変えられて世界中に知られています。

そのためアウシュヴィッツが、ドイツにあると思われている方も多いのではないでしょうか。

 

アウシュヴィッツ博物館

 

アウシュヴィッツ収容所ができた1940年当初は、ポーランド人の政治犯の収容が目的でしたが、やがて罪もないユダヤ人が運び込まれるようになります。

表向きは「善意によってユダヤ人を保護収用する場所」「幸福世界」などと宣伝されていましたが、実態はユダヤ人殲滅を目的に強制労働、人体実験、大量虐殺を行う「死の収容所」でした。

連行された人々は収容所の建設を課せられ、ガス室や死体を焼却する焼却場も自ら造らされた挙句、最後はそこに送り込まれたのです。

 

戦後この施設は、基本的に当時のままの状態で保存され、今は博物館として公開されています。

 

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ガイドをお願いすることもできますが、私達はこちらの日本語ガイドブックを売店で購入して自分達のペースでゆっくり見学しました。

このガイドブックには、各棟のそれぞれの展示に沿って説明が書かれているので、読みながら効率的に見学できるようになっています。

 

この記事もこのガイドブックを参考に見学順に書いています。

 

収容所入口ゲート

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収容所の入口ゲートには「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という皮肉な文字が掲げられ当時のまま残されています。

強制労働の末、死ぬことで自由になると言う意味だったのでしょうか。

 

ガイドブックの写真のほうが見やすいのですが、「ARBEIT 」の「B」の文字が逆さまになっています。

収容された者がせめてもの抵抗の証としてつくったという説もあるそうです。

 

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周辺には有刺鉄線が張り巡らされています。

当時は220Vの高圧電流が流されていたそうです。

 

4号棟:殲滅計画

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これは、ユダヤ人を乗せた列車がどこから出発したのかを示した地図です。

窓もない貨車に詰め込まれてヨーロッパ各地を出発して劣悪な状態で連行されました。

 

そして到着後は家族を引き離し、労働可能か労働不能か、または人体実験の対象となるか選別されます。

労働可能とみなされた人は全体のわずか20~25%で、収容所に入り強制労働を強いられました。

労働不能とみなされた人(老人、病人、障害者、子供連れの母や妊婦)は、連行後すぐにガス室で殺害されました。

 

4号棟には列車の到着から家族の引き離し、選別、ガス室へ行く人々の写真が展示されています。

 

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死へと選別された人々はガス室に誘導される前に服を脱がなければなりませんでした。

その場所にはシャワーに見せかけたものが備えられ、脱衣所には長椅子と番号付きのハンガーがあります。

それは洗浄後に自分の服をとって住居用バラックに行くと信じさせるためのものでした。

脱衣所からガス室までの模型があり、その様子が細かく表されていました。

 

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ガス室で使われたチクロンBという劇薬の空き缶が山のように積み上げられています。

親衛隊員がガスマスクをしてチクロンBの缶を開けシアン化水素を染みこませた珪藻土の粒を撒くと、温度に準じてガスが放出し、そこにいた人々を呼吸困難にしました。

そして死体は焼却炉でまとめて焼かれます。

 

人間はどこまで残酷になれるのでしょうか。

「ユダヤ人」というだけで、酷い仕打ちをうけ、その悲しみ苦しみを想像しただけでも恐ろしくなります。

 

4号棟の撮影禁止の部屋には2トン近い女性の髪と、髪の毛で作った織物がありました。

収容された人は強制的に髪を切られました。

そして、ガス室で殺された女性の髪もいっしょに産業用の原料として袋に詰め込んでドイツ企業に売られたそうです。

 

可愛らしく三つ編みに編まれた髪が根元から切り落とされて積まれている光景は、目を背けたくなります。

 

5号棟:重犯罪の証拠

戦争末期、ナチス・ドイツは犯罪の痕跡を消すためユダヤ人から略奪した物品の保管倉庫を急いで空にしようとしました。

犯罪だという意識はあったんですね。

 

5号棟にはナチス・ドイツが破棄するのに間に合わなかった財産の一部があります。

アウシュヴィッツ到着後に何が待ち受けているのか気づいていなかったことは、持ってきていた日用品が示しています。

 

↓トランク

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↓鍋、皿などの日用品

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↓靴

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↓義手や義足

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↓タリート(ユダヤの祈りのショール)

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その他にも、衣服やメガネ、歯ブラシ、靴用クリームなどの日用品などが集められていて、その膨大な量に驚きました。

それぞれの物に持ち主がいて、普通の日常生活を送っていたのです。

 

人の命がどれだけ軽く扱われていたのでしょう。

ナチス・ドイツはユダヤ人を劣等民族とみなし1945年までの約5年間に150万人もの人々をここで殺害しました。

 

次回Part2につづく

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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ポーランドの街シリーズ

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