こんにちは。あおです😊
ご訪問いただきありがとうございます。
今日は前回Part1の続きです。
よろしければPart1の記事もご覧下さい↓
とても写真を撮る気持ちになれなかったと言いながら、今回も(夫が撮った)写真を多く載せています。
気持ちが重くなる方もいらっしゃると思いますので、気をつけて下さい。
*目次・Part2*
アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)
アウシュヴィッツ博物館
Part1
- 収容所入り口ゲート
- 4号棟:殲滅計画
- 5号棟:重犯罪の証拠
Part2 ここから↓
6号棟:被収容者の生活
アウシュヴィッツ強制収容所に連行され、最初の選別で約7割がそのままガス室に送られました。
そして6号棟にはその選別で生き残り、収容所に入った人達の写真がたくさん並んでいます。
顔写真の下には姓名、生年月日、職業のほかに、収容所連行日と死亡日が記されています。
その多くが飢えや強制労働、劣悪な環境による伝染病蔓延などが原因で2ヶ月程度で死に至っています。
屈強そうに見える若者でさえも数ヶ月で死に至るという生活を想像しただけでもぞっとします。
収容所の1日は、夏は4時半、冬は5時半の早朝に始まります。
下の絵は朝、長時間の過酷な肉体労働に出ていく様子と、夕方、死亡または殺害された仲間の遺体を担いで収容所に戻る様子を描いています。
毎日、朝と夕方には音楽隊によって行進曲が演奏されます。
収容所では音楽が、効果的な役割を果たしていました。
規律を向上させるため、拷問や刑罰を盛り上げるため、そして死の瞬間にも曲が演奏されました。
音楽と蛮行がセットで使われていたことにとても衝撃をうけました。
ガス室に送られなかったとしても、過酷な肉体労働が待ち受けていて、死が数ヶ月先延ばしになっただけです。
仲間が次々と死んでいくのを目の当たりにしながら、それでも皆少しでも長く生きたかったのだろうと思います。
7号棟:住居・衛生状態
7号棟は被収容者の部屋が再現されていました。
プライバシーなどない簡易トイレと洗面所
粗末な藁や藁布団に重なり合って寝ていました。
11号棟:収容所の監獄
11号棟は収容所の監獄だった場所で、地下に餓死牢や窒息牢、立ち牢などの監房がありました。
餓死牢ではパンも水も与えられず、ほとんどの人が苦しみながら半狂乱になって死んでいったそうです。
ある時、脱走者が出て、連帯責任として無作為に選ばれる10人が餓死刑になることになりました。
不幸にも選ばれてしまった人が「妻子に会いたい」と泣き崩れるのを見て、身代わりを申し出たのがポーランド人のコルベ神父です。
第2次世界大戦前に日本の長崎に布教に来ていて、日本とゆかりの深いコルベ神父が入れられた餓死牢もありました。
中庭・死の壁
通称「死の壁」と呼ばれ、この壁の前で数千人にも及ぶ人の銃殺が行われました。
「死の壁」には献花がたえません。
下の写真は宙づりの刑に使われた柱です。
柱の上部には鉤が付いていて、両手を背中で結んで足が地面に触れないようにして鉤にかけたそうです。
20号棟:毒注射
ここには普通の病院のような治療室がありました。
20号棟は収容所の病院でしたが、患者が溢れかえったため、病人をフェノールの心臓部注射で殺し始めました。
心筋に針を直に刺すと、数秒で死に至ったそうです。
もはや病院の意味がわかりません。
点呼広場・集団絞首台
被収容者は毎日朝と夕方ここに立たされ、人数変動を確認するための点呼が行われました。
厳しい気候条件の下で長時間続くことがあったため多くの犠牲者を出しました。
点呼時にはガス室送りにする病人や衰弱者を選びます。
また脱走で捕まったり、脱走者を助けたりした人を、見せしめのために絞首による公開処刑にしたりしました。
焼却炉・ガス室
土塁で覆われた低層の建物にはレンガの煙突がついています。
内部には、いくつかの空間があり、その中で最も大きなところがガス室でした。
天井には穴があいていて、そこからチクロンBを投げ入れたそうです。
その横に焼却炉があり当時は1日に340人もの遺体が焼かれていました。
中に入ってはみたものの、とても長くはいられませんでした。
ここまで見学してきて、ふと思ったのは「写真でよく見るあの場所はどこにあるのだろう……」ということでした。
ゲートから延びる鉄道引き込み線の異様な景色を思い浮かべながら尋ねてみると、その場所はビルケナウだとのこと……
ビルケナウ(ブジェジンカ)
私達が見学していた場所から約3㎞ほど離れたところに、ビルケナウがあります。
ビルケナウにも収容所があるというので行ってみると、あのゲートがありました。
ユダヤ人輸送列車の進入口です。
「死の門」とも呼ばれるこのゲートをくぐり列車は収容所内の降車場に止まります。
この写真はゲートの内側から撮ったもの。外側から撮った写真はPart1にあります。
「死の門」と呼ばれたゲートをくぐって中へ入ると、見渡す限り草の茂った広大な敷地に、点々と木造のバラックが建っています。
敷地面積1.4㎢、300棟以上のバラックが並ぶこんな大規模な収容所がここにもあったなんて想像をはるかに超えていました。
ビルケナウの収容所には当時4つの大きなガス室と焼却炉があったそうですが、ドイツ軍が撤退する際、証拠隠滅のために破壊したそうです。
この広大な場所を歩きながら、ユダヤ人というだけで私達と変わらない普通の人々に起こった悲劇を想像すると、もう二度とこのようなことが起こりませんように……と祈らずにはいられませんでした。
さいごに
前回Part1を書いてから、なかなかPart2を書く気になれずにいました。
ちょっと気持ちが重くなってしまって…。
☆やコメントありがとうございました。
歴史は繰り返すといいますが……
この記事を書きながら、現代のアウシュヴィッツとも言われるウイグルの問題が何度も頭に浮かびました。
アンネの日記のアンネ・フランクは強制収容所に送られる少し前にこんな文章を日記に綴っています。
じっさい自分でも不思議なのは、わたしがいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。(中略)今でも信じているからです。たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。(1944年7月15日)
過酷な状況におかれた15歳の少女の言葉が心に響きます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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